長文です。。
ブームを巻き起こす作品は、その時代、その社会の「集合無意識」に響くものがあるといわれる。例えば、マイケルジャクソンは唯一無二の歌声とダンスで、平和と環境保護を見事にラッピングした。その人気が単なる流行に終わらなかった理由は、華美なラッピングの中に、聴衆が本当に欲していたものを用意していたからだ(参考文献:安富歩「マイケル・ジャクソンの思想」)。
その視点から考えると、鬼滅の刃の流行にもまた、何かしら示唆するものがあるはず。
この作品には、教育虐待(宇髄天元)、性風俗と孤立(堕姫)など現代に通じる様々なテーマが内包されているが、全編を通して通底しているのは、炭次郎一家のおだやかさと、世俗からの距離感だ。剣士の始祖となった縁壱は妻うたと「手の届く幸せ」を願う素朴な人柄として描かれている。イクメンなどと声高にいうのではなく、当たり前の幸せとして、川の字に並んだ布団で赤子の手を握ることを夢見ていた。その夢を鬼が壊し、戦いが始まるわけだが、その剣士の強力な技を子に伝えつつ坦々と暮らす炭次郎一家は、ひっそりと穏やかに生きることそのものが、鬼を滅する重要な要素であることを体現しているように見える。そんな環境で炭次郎が見出した重要な視点が「自分も一歩間違えれば鬼になってしまう」ということだった。
これは、虐待する人や犯罪者を「自分とは違う人々」ととらえず「一歩間違えれば自分も…」と理解しようとすること。非常に重要な考え方だ。裁判があるのは、本来この考え方に戻づいてのこと。つまり、罪の背景を明らかにすることで「同じ状況を作らなければ、この人は犯罪者にならずに済んだかもしれない」という反省を社会に促すことがその機能なのである(決して見せしめのためではない)。作者が鬼になったいきさつを細かく描いているのはこのためだろう。
つまり鬼滅の刃は、鬼になった(虐待をする、罪を犯す)人、あるいは鬼と対峙するために鬼と並ぶ強さを求めた人々の物語だ。ストーリーテラーたる炭次郎が自らそれを経験し乗り越える(炭次郎は一時的に鬼化する)ことで完成する「転落と再生の物語」とも読み解ける。それぞれ鬼化の事情は十分同情に値する。そこに寄り添う炭次郎の「共感の心」が、最終的には鬼を滅する「鬼滅の刃」そのものだった(だから煉獄さんの「心を燃やせ」が大切なのか。
これが、いま爆発的に、しかも子どもを中心に流行している。その集合無意識に働いているのはまさに、「一歩間違えれば自分も…」という「共感」のメッセージなのではないだろうか。分かりやすい非行とは縁遠い、素直で頑張り屋の炭次郎が一時的に鬼化してしまうという、周囲が非常に困惑する事態を最後に描くことで「鬼になってしまった人に、どう接したらいいか」を問う(最終試験のような)場面さえある。そこで、炭次郎自身が仲間たちに見せてきた「共感」の重みが、読者含めみんなに改めて突きつけられる。仲間たちが選んだのは「あきらめない、傷ついても寄り添って、呼びかけ続ける」という方法だった。まさに伴走型の支援。これを、子どもたちは求めている。